GROWIN UP! VOL.3

「僕はもう逃げない」小学生から目指した黒黄の『3』、再起かけるスクラム

2022年度法学部新4年

鈴木 悠太

Yuta Suzuki

自分をとことん見つめ直した先に、成長を遂げた自分がいた。
PR(プロップ)の鈴木悠太(4年・法、慶應義塾)は、大学1年の頃から試合に出場したが、けがをきっかけに出場機会から遠のき、一時は謙虚さを失っていたと振り返る。だが昨シーズン、再び23人のメンバーに選ばれると、密集の中心で前進を繰り返した。
「僕はもう逃げない」――。中学時代から黒黄のフロントロー(FW第一列)を支えてきた男は、スクラムの屋台骨としてラストシーズンにかける。

Text by 小川裕介
Photograph by 田口恭子(慶應ラグビー倶楽部)

 2021年11月23日、秩父宮。後半20分過ぎから投入されると、最初のスクラムでしっかりヒットし、相手が故意に落とすコラプシングの反則を誘った。
「とにかく丁寧にプレーすることを意識していました」
 ラインアウトでは、ジャンプしてボールを受けとる選手を持ち上げるリフターとしてすべて成功させ、磨いてきたモールを武器に、あと一歩のところまで早稲田を追い詰めた。
「やってきたことは間違いではなかった」
 もちろん結果に納得はいかなかったが、確かな自信を手にした20分間だった。

 小学生の頃から、黒黄ジャージーを着て活躍するのが夢だった。
 父の勧めで、小学3年のときから横浜ラグビースクールで楕円球に親しんだ。体操やサッカーもしていたが、ラグビーは気性に合った。テレビでタックルを浴びせ続ける黒黄の選手たちを見て、「泥臭く激しいプレーがしたい」と、慶應義塾中等部を志望校に据えた。

 鈴木には、生来の体の強さがある。中等部では2年時から東日本大会でも活躍し、3年のときには主将に抜擢された。
「寡黙で負けず嫌い。持ち前の体幹の強さを活かし、黙々とプレーで引っ張るタイプのキャプテンでした」
 当時指導した中等部の鈴木加津彦監督は、そう述懐する。
 3年時に主将として臨んだ東日本大会では、予選で敗退し、多摩川の河川敷グランドで見せた心から悔しそうな表情を今も覚えている。
「悠太は、自分やチームの課題を自ら発見し、率先して提言、準備することの重要性や、それらの練習に臨むマインドセットなどを学びました」

 続く慶應義塾高校では、2年生のころから控えのメンバーに選ばれ、3年からスタメンとして活躍した。首脳陣の信頼も厚く、稲葉潤監督から「個性的なメンバーがまとまるように気配りしてほしい」と、副務も任された。
 稲葉が一番印象に残っているのは、高校3年時に菅平合宿の最終日にあった大阪の強豪校・常翔学園との試合。連日の練習で足を痛めていたが、歯を食いしばりながらプレーを続けた。試合を終えた後、満足なプレーができなかった苦しさから号泣していた姿を、稲葉は今でも覚えている。

 一貫指導に注力する慶應では、高校生が大学生と一緒に練習する機会もある。
 鈴木は当初、「体が大きくて怖いな」と思っていたが、一つ一つの練習が技を盗む機会でもあった。高3のときの試合形式の練習では、大学のジュニアチームを相手に勝つこともあるほど、チーム力も向上していった。県大会では決勝まで勝ち上がり、桐蔭学園に肉薄した。

 大学入学後は、春シーズンからレギュラー選手たちが集まるシニアチームで練習を続け、控え選手として春季大会にも出場した。秋の関東大学対抗戦でもメンバーに抜擢され、「思い切りやってこい」と送り出された。
 100人以上の部員がいる蹴球部で、1年目から選ばれる選手はそう多くない。鈴木には生まれ持った体幹の強さに加え、中学、高校時代の蓄積があった。成蹊大学戦では、緊張しながらもスクラムを押せた感覚があった。
「1年から試合に出られたので、4年になったらスタメンで出ているだろうなと何となく思っていました」
 鈴木は、当時の心境をそう率直に振り返る。

 だが、直後に臨んだジュニア選手権の早稲田戦だった。
 ラック(密集)で、相手選手を押しのけるオーバーに入ったとき、足に今までにない痛みを覚えた。軽いねんざと思いプレーを続けたが、痛みはおさまらなかった。試合後に受診すると、足の甲を疲労骨折していた。

 けがから復帰後、U20(20歳以下)日本代表候補にも選ばれたが、練習中にけがが再発。2カ月のリハビリを余儀なくされた。
 できる練習をこなしたが、「けがをしていた期間、成長するのではなく、劣化してしまっていた」。復帰後も、けがをする前の状態以上にはなかなかならなかった。
 それでも、自分はこのまま練習を続けて調子を取り戻せば、そのうち試合に出られるだろうと思っていた。

「真摯にラグビーに取り組めていないんじゃないか」
 監督の栗原徹から、厳しい言葉を浴びせられたのはそんなときだった。
 大学2年夏の日吉のグラウンド。ラインアウトの練習中、リフターの鈴木がボールを受けとる選手を持ち上げ、手放すように下ろしたときだった。本来ならリフターは、着地した選手を相手の防御から守るために、姿勢をとらなくてはいけない。
 栗原は、そんな鈴木の練習態度を看過しなかった。
 日々の練習から、鈴木が100%を出し切り、チームの勝利のために最善を尽くしているようには見えなかったからだ。栗原は、そんな姿勢が鈴木の成長を阻害していると考えていた。
「下のグレードでは、一生懸命やっても試合に出られない人たちがたくさんいる」
「自分ではやっていると思っているかもしれないが、全然やっていない」

 鈴木は当初、「慢心しているわけではないのに・・」と納得できなかった。内心、栗原の言葉に反発したい気持ちもあった。
 だがシーズンが深まり、下級生も試合に出始めるようになると、「来年以降もこのままずっと試合に出られないのでは」と危機感が募った。そして、ついには下部のジュニアチームに落とされ、不安は現実味を帯びていった。
 気持ちの整理がつかないまま、ラインアウトの練習中に、栗原から再び練習態度をとがめられた。練習の最初から、ジャンパーの選手を十分持ち上げられていなかった。
 部室に戻ると、涙が出てきた。
 悔しさと情けなさ、不甲斐なさに襲われ、自分はいったい何をしているのだろうと思った。

 入部して初めて、鈴木は自省を深めた。
「なんで(下部チームに)落とされたんだと思っていたが、シンプルに自分が他の選手と比べて劣っているから。自分の弱みから目を背けて、『自分はできるんだ』と勘違いしていた」
 客観的に自分を省みると、きつい練習や嫌なことから逃げていた自分に気づいた。
 タックルで飛び込んでいたり、ボールを持っても十分にゲイン(前進)できていなかったり。自分のプレーに、数多くの改善点があることにも気づいた。中等部の頃からのプレーを振り返っても、もっと頑張れたことがあったんじゃないかと思えてきた。
「自分ができると思っていることは、周りから見ると全然できていないんだ」

 そこから自ずと行動は変わった。
 それまで避けていた自主練習を始めた。石田明文コーチのリードで、FWの選手たちを集めてボールキャリーを繰り返した。苦手なフィットネスも全力を出しきるようにして数値を伸ばした。
「これを毎日やると決め、自分として逃げられない状況を作ることで、慢心をなくそうと思った」
 日々の生活も「丁寧になった」。合宿所などでも、ごみがたまっていたら袋を変える、散らかっていたら掃除する。それまでなら見過ごしていたことも、気づいたら自分から行動するように心がけた。

 苦しい時間の中でも支えは仲間だった。
 中等部から苦楽を共にする相部屋のFL村口遥紀(4年・法、慶應義塾)は、いつでも相談に乗ってくれた。
 夜になると、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」や「私の頭の中の消しゴム」など「感動系」の映画を見て気持ちを高めた。部室で肩を落としていると、声をかけてくれる同期や先輩がいた。

 転機は3年の夏合宿。
 コロナ禍で唯一開催された菅平での帝京大学との練習試合に途中から投入されると、それまで後退を繰り返していたスクラムがぴたりと止まった。
「スクラムがチームにとって必要になるときが来る」。そう教えられ、地道に取り組んできた成果だった。
「自分に向き合えたからこそ弱みを認識できたし、試合で力を発揮できた。自信につながったし、自分のプライドになった」
 秋の対抗戦では、再び黒黄ジャージーを着て躍動する鈴木の姿があった。大学選手権ではメンバーに選ばれなかったが、「フィールドプレーが課題で、実力が足りなかった」と客観的に考えられる自分がいた。
 そこでもう腐る鈴木ではなかった。

 鈴木が今こだわるのは、「スクラムでのプライド」だ。目標にしているのは、昨季の主将を務めたHO原田衛(総合政策、桐蔭学園)。「どんな状況でも負けない、負けるなんて思ったことのない人」と尊敬している。
 今季は最終学年として、慶應のフロントローを率いる立場にある。スクラムの姿勢の練習では、一番美しい姿勢を作ることを心がけ、後輩たちにも教えるようになった。
「目立たないけど試合を支えているのはフロントロー。そこが強くないと試合では勝てない。プライドを持ってそこだけは絶対に負けられない」
 そんな頼もしい言葉も口をついて出るようになってきた。

 栗原があえて厳しい言葉をかけたのも、そんな成長を期待していたからだった。
「スー(鈴木)には、慶應の中では特殊とも言える体の強さがあり、スクラム、モールでも押していける力がある。でも人は何かの才能があると、かまけることがある。そこを何とか自分で乗り越えてほしかった」

 現代ラグビーにおいても、スクラムの重要性は論を俟たない。慶應ラグビーの歴史をひもといても、1980年代に日本一を果たした「橋本、五所、中野」ら、上位を占めるときには代名詞的なフロントローがいた。創部100周年の日本一のときにも「田中、岡本、安」らに加え、日本代表候補にもなった左座や浜岡らが、激しいポジション争いを繰り広げた。

 栗原は、慶應のフロントローを支える存在になってほしいと、鈴木が1年生のころから育成方針についてコーチ陣と話し合ってきた。
「すごく頑張っても試合に出られない部員がたくさんいる中で、スーは少し頑張れば試合に出られる。そのままでも3本目ぐらいには入れるが、スーが目指すところはそこではない。ぜひ努力して達成感を持てる1年にしてほしい」

 一貫教育で鈴木をずっと見守ってきた恩師たちも、鈴木の奮闘を心待ちにしている。

 慶應義塾高校監督だった稲葉は「プレーそのものだけでなく、高校時代にどんな怪我の状態でも試合でプレーすることを諦めなかった粘りを、大学蹴球部生活の最終学年でも見せてもらいたいと期待しています」と語る。

 中等部の監督だった鈴木加津彦は「今までやってきたことが糧となり、一つ一つのセットプレーへのこだわりは、誰にも負けないプレーヤーになっている、と信じています」。

 鈴木の成長は、チームの成長に直結する。
「スクラムでもっと強くなることはもちろん、ディフェンスやボールキャリーなどフィールドプレーでも安定した強さを見せたい。最後はAチームの一員として、日本一でシーズンを終えたい」と、鈴木はラストシーズンの抱負を語る。

あふれる才能が開花する1年へ。逃げない覚悟はもうできている。
(敬称略)